ペニャさんの経歴2 出身国での迫害
ペニャさんはコックとして働くためだけに日本に移住したのではありません。恐るべき迫害から逃れてきたのです。彼は家族とともに、出身国チリの悲劇的な歴史に巻き込まれ、離散を余儀なくされ、さらにはリンチを受けて危うく殺されかけました。つまり彼は難民なのです。
リンチを受けたペニャさん(本人作)
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1 背景・チリの軍事独裁と民主化
1973年9月11日、ペニャさんが13歳のとき、チリで軍事クーデターが起こりました。チリ軍部は、選挙により成立した社会主義政権を暴力により覆し、左派の活動家や支持者を虐殺しました。クーデターは米国の政府と多国籍企業に支援されており、軍部は政権につくと、米国の経済学者を顧問につけて財政削減・民営化・規制解除の新自由主義政策を推し進めたのです(それはむしろチリ経済を失業の拡大により破滅させたのですが)。
1989年、チリ民衆の民主化要求の高まりを受け、1990年3月11日、民選のエイルウィンが大統領に就任し、軍事独裁は終わりました。その直後に設立された「真実和解国民委員会」(レティッグ委員会)は、軍政期における虐殺や人権侵害を調査し、翌年2月に報告書を提出しました。
しかしその一方で、軍部はいまだに政治への影響力をかなり保っていました。そもそもエイルウィン大統領が、1973年には軍事クーデターの支持者であり、軍部に徹底的な対決姿勢をとることはありませんでした。それでも軍部は再三、真相究明を処罰に発展させないよう政権に脅しをかけたのです。こうして、民主化の後にも軍部の力は強大でした。
2 クーデターへの協力を強制されたペニャさんの父親
1973年のクーデターで、ペニャさんの父親は軍部の左派狩りに協力させられました。民主化の後、父親は真相調査に協力します。しかしそのことで彼は、一方では左派に虐殺の協力者と見なされ、他方では軍部や右派に恨まれ、家族もろとも報復の対象にされてしまったのです。
ペニャさんの父親は、軍など政府関係の建物のメンテナンスを担当する技師でした。クーデターが起きた日、一家の住居だった官営のアパートメントに軍人がやってきて、父親を連れ出しました。彼は仕事のため、官庁やアパートメントなどさまざまな建物に出入りしていたので、どこに左派がいるかを軍は彼から聞き出そうとしたのです。危険人物を別の場所に移すためだと、軍は彼に説明しました。
命令を受けて、ペニャさんの父親はリストを作成しました。さらに軍は、身柄拘束された市民たちを収容したスタジアムに彼を連行し、彼に覆面をさせたうえで、リストに含まれる人物を指さして知らせるよう命じました。彼の協力により、軍は300人以上を特定しました。彼らは実際には、拷問され、殺され、死体を隠されたのです。そのことを軍は彼に決して知らせませんでした。その後、彼は多くの将軍たちから表彰を受けました。
軍部が収容所にしたスタジアム(N.Y. Times より)
民主化の後、上記の真相究明の委員会が発足すると、ペニャさんの父親は自発的に、彼の協力による300人以上の行方不明者の件を、委員会に告白しました。すると彼は表向き退役ということで、軍から解任させられます。退職金などの恩恵も与えられませんでした。身の危険を感じて、一家は官営アパートから引っ越しましたが、しかし追跡と脅迫から逃れることはできませんでした。
犠牲者の選別に協力させられた父親(ペニャさん作)
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3 家族離散と迫害
ペニャさん一家は、いっしょに暮らすのは危険だと判断し、別々に生きていくほうが安全だと判断して別れ、連絡もとらないようにしました。こうしてペニャさんの家族との生活は永遠に失われてしまったのです。後に父親は、孤独と恐怖のなかで認知症が進み、それで亡くなってしまいます。
ところが父親と別れたにもかかわらず、ペニャさんは二度、誘拐されました。そのうち一度はリンチされ、死んでもおかしくないほど痛めつけられたのです。
1992年、32歳になる年、ペニャさんはサンティアゴ市の国際料理コンテストで一位に選ばれ、金メダルを授与されます。そのことで、彼の勤め先が追跡者に発覚しました。
ある夜、ペニャさんは仕事場のレストランを出ると、多数の男に囲まれました。おとなしくついて来なければ殺すと脅され、車に乗せられ、人里離れたところに連れていかれました。男たちはそこで彼を降ろすと、脅しと罵りの言葉を浴びせながら殴りはじめました。鎖や棒で痛めつけ、衣服をはがし、彼が倒れると石を投げつけながら殴る蹴るを続け、最後には小便をかけました。彼は血だらけで、全裸になったのに寒さをまったく感じなかったといいます。
男たちはペニャさんを放置して去りました。彼は時間をかけながら、どうにか民家にたどり着きます。住人は全裸で血だらけの彼を見て驚きましたが、彼は警察や救急車を呼ばないよう頼み、代わりに家族に電話をかけてもらいました。駆けつけた両親が、彼を病院に連れていきました。迫害者に見つかるのを恐れて、警察には強盗に襲われたと報告し、医師の診断書にはヘルニアの手術をしたと書かせました。
リンチされ捨て置かれたペニャさん(本人作)
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これが原因で、ペニャさんはさまざまな後遺症に苦しめられています。まず左耳の聴力を失い、左目の視力も弱くなりました。しかもそのかわりにいつも耳鳴りがするようになり、そのせいで彼はつねにストレスを感じています。くわえて男たちは、おまえがコックなら料理できないようにしてやると言って、私の手を痛めつけました。そのせいで私の指は歪み、たまに鋭い痛みを発します。
退院すると、ペニャさんはすぐにサンティアゴを離れました。その後、彼は欧州に渡り、そこで日本人に声をかけられて、1996年1月にペニャさんは日本に渡ります。それから2011年まで彼がコックとして問題なく暮らしてきたことは、先の記事で説明したとおりです。
おわりに
ペニャさんは、チリの複雑な政治情勢に巻き込まれ、迫害の標的となり、実際に殺されかけました。いまもチリでは軍部が一定の力を保っており、ペニャさんの身の安全は保証されていません。くわえて、彼は高齢にさしかかりつつありますが、しかしチリには迎えてくれる家族すらいません。彼にとって帰国は、あらゆる意味で不可能な選択肢です。