2025年2月1日土曜日

ペニャさんの仮放免後の活動歴


[Posted on 2024/5/5]

 

 クラウディオ・ペニャさんは、2020年5月に東日本入管センター(牛久入管)から出たあと、多くのメディア取材やイベントへの招待などの依頼を受け、活動してきました。

 ここでは、ウェブでアクセス可能なペニャさんの活動歴の一部を紹介します。



ペニャさんの経歴


[Posted on 2020/3/21]

 

ペニャさんの経歴

クラウディオ・ペニャ
Claudio PEÑA

チリ国籍 1960年生まれ

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ペニャさん自画像。1992年、彼がサンティアゴの国際料理コンテストで金メダルを受賞したときの写真にもとづく。


 1996年1月に来日。コックとして日本で長く働く。

 2010年末、意気投合した日本人コックといっしょにレストランを開くため、それまで勤めていた店を退職し、準備をはじめる。だがその矢先、2011年3月に大震災と原発事故が起きると、日本人コックは事業を起こす気を失ってしまい、日本を離れる。在留資格の更新期限が迫っていたペニャさんは、いそいで他の再就職先を探すが、震災直後の不安のなかで雇用者は見つからなかった。そのまま彼の在留期限は期限切れとなり、さらには同年7月、ペニャさんは入管に収容されてしまう。

 仮放免を許可されたのは2013年のことだった。それから4年間、就労が認められず健康も悪化するなか、ペニャさんがどうにか日本で暮らしつづける。しかし2017年10月、彼はふたたび東京入管に収容されてしまう。その後、2018年7月に牛久に移され、現在にいたる。

 第一に、ペニャさんはコックとして日本に長年暮らしてきた、この社会のメンバーである。在留資格を失った原因は、震災をきっかけに雇用先が見つからなくなってしまったことであり、彼自身に帰されるべき責めはない。

 第二に、ペニャさんは左脚に静脈瘤をもっており、航空機の客室用など狭いところに長時間じっとしているのは危険と医師に言われたことがある。もし彼を強制送還すれば、命にかかわる事態が生じるかもしれない。

 第三に、2018年、チリでかつての軍事独裁者ピノチェトの流れをくむピニェラが大統領に就いてからは、ペニャさんは迫害の恐れを抱いている。これも、彼を送還対象として扱うべきではない理由の一つだ。

 そんなペニャさんが自分自身の解放のために前進できるよう、2020年3月、支援するキャンペーンを開始した。以下の記事を参照。

 寄附のお願い ペニャさんの仮放免に向けて





ペニャさんの経歴2 出身国での迫害


[Posted on 2020/4/18]

 

ペニャさんの経歴2 出身国での迫害

 ペニャさんはコックとして働くためだけに日本に移住したのではありません。恐るべき迫害から逃れてきたのです。彼は家族とともに、出身国チリの悲劇的な歴史に巻き込まれ、離散を余儀なくされ、さらにはリンチを受けて危うく殺されかけました。つまり彼は難民なのです。

リンチを受けたペニャさん(本人作)
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1 背景・チリの軍事独裁と民主化

 1973年9月11日、ペニャさんが13歳のとき、チリで軍事クーデターが起こりました。チリ軍部は、選挙により成立した社会主義政権を暴力により覆し、左派の活動家や支持者を虐殺しました。クーデター米国の政府と多国籍企業に支援されており、軍部は政権につくと、米国の経済学者を顧問につけて財政削減・民営化・規制解除の新自由主義政策を推し進めたのです(それはむしろチリ経済を失業の拡大により破滅させたのですが)。

 1989年、チリ民衆の民主化要求の高まりを受け、1990年3月11日、民選のエイルウィンが大統領に就任し、軍事独裁は終わりました。その直後に設立された「真実和解国民委員会」(レティッグ委員会)は、軍政期における虐殺や人権侵害を調査し、翌年2月に報告書を提出しました。

 しかしその一方で、軍部はいまだに政治への影響力をかなり保っていました。そもそもエイルウィン大統領が、1973年には軍事クーデターの支持者であり、軍部に徹底的な対決姿勢をとることはありませんでした。それでも軍部は再三、真相究明を処罰に発展させないよう政権に脅しをかけたのです。こうして、民主化の後にも軍部の力は強大でした。


2 クーデターへの協力を強制されたペニャさんの父親

 1973年のクーデターで、ペニャさんの父親は軍部の左派狩りに協力させられました。民主化の後、父親は真相調査に協力します。しかしそのことで彼は、一方では左派に虐殺の協力者と見なされ、他方では軍部や右派に恨まれ、家族もろとも報復の対象にされてしまったのです。

 ペニャさんの父親は、軍など政府関係の建物のメンテナンスを担当する技師でした。クーデターが起きた日、一家の住居だった官営のアパートメントに軍人がやってきて、父親を連れ出しました。彼は仕事のため、官庁やアパートメントなどさまざまな建物に出入りしていたので、どこに左派がいるかを軍は彼から聞き出そうとしたのです。危険人物を別の場所に移すためだと、軍は彼に説明しました。

 命令を受けて、ペニャさんの父親はリストを作成しました。さらに軍は、身柄拘束された市民たちを収容したスタジアムに彼を連行し、彼に覆面をさせたうえで、リストに含まれる人物を指さして知らせるよう命じました。彼の協力により、軍は300人以上を特定しました。彼らは実際には、拷問され、殺され、死体を隠されたのです。そのことを軍は彼に決して知らせませんでした。その後、彼は多くの将軍たちから表彰を受けました。

軍部が収容所にしたスタジアム(N.Y. Times より)

 民主化の後、上記の真相究明の委員会が発足すると、ペニャさんの父親は自発的に、彼の協力による300人以上の行方不明者の件を、委員会に告白しました。すると彼は表向き退役ということで、軍から解任させられます。退職金などの恩恵も与えられませんでした。身の危険を感じて、一家は官営アパートから引っ越しましたが、しかし追跡と脅迫から逃れることはできませんでした。

犠牲者の選別に協力させられた父親(ペニャさん作)
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3 家族離散と迫害

 ペニャさん一家は、いっしょに暮らすのは危険だと判断し、別々に生きていくほうが安全だと判断して別れ、連絡もとらないようにしました。こうしてペニャさんの家族との生活は永遠に失われてしまったのです。後に父親は、孤独と恐怖のなかで認知症が進み、それで亡くなってしまいます。

 ところが父親と別れたにもかかわらず、ペニャさんは二度、誘拐されました。そのうち一度はリンチされ、死んでもおかしくないほど痛めつけられたのです。

 1992年、32歳になる年、ペニャさんはサンティアゴ市の国際料理コンテストで一位に選ばれ、金メダルを授与されます。そのことで、彼の勤め先が追跡者に発覚しました。

 ある夜、ペニャさんは仕事場のレストランを出ると、多数の男に囲まれました。おとなしくついて来なければ殺すと脅され、車に乗せられ、人里離れたところに連れていかれました。男たちはそこで彼を降ろすと、脅しと罵りの言葉を浴びせながら殴りはじめました。鎖や棒で痛めつけ、衣服をはがし、彼が倒れると石を投げつけながら殴る蹴るを続け、最後には小便をかけました。彼は血だらけで、全裸になったのに寒さをまったく感じなかったといいます。


迫害者に脅されるペニャさん(本人作)
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 男たちはペニャさんを放置して去りました。彼は時間をかけながら、どうにか民家にたどり着きます。住人は全裸で血だらけの彼を見て驚きましたが、彼は警察や救急車を呼ばないよう頼み、代わりに家族に電話をかけてもらいました。駆けつけた両親が、彼を病院に連れていきました。迫害者に見つかるのを恐れて、警察には強盗に襲われたと報告し、医師の診断書にはヘルニアの手術をしたと書かせました。

リンチされ捨て置かれたペニャさん(本人作)
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 これが原因で、ペニャさんはさまざまな後遺症に苦しめられています。まず左耳の聴力を失い、左目の視力も弱くなりました。しかもそのかわりにいつも耳鳴りがするようになり、そのせいで彼はつねにストレスを感じています。くわえて男たちは、おまえがコックなら料理できないようにしてやると言って、私の手を痛めつけました。そのせいで私の指は歪み、たまに鋭い痛みを発します。

 退院すると、ペニャさんはすぐにサンティアゴを離れました。その後、彼は欧州に渡り、そこで日本人に声をかけられて、1996年1月にペニャさんは日本に渡ります。それから2011年まで彼がコックとして問題なく暮らしてきたことは、先の記事で説明したとおりです。


おわりに

 ペニャさんは、チリの複雑な政治情勢に巻き込まれ、迫害の標的となり、実際に殺されかけました。いまもチリでは軍部が一定の力を保っており、ペニャさんの身の安全は保証されていません。くわえて、彼は高齢にさしかかりつつありますが、しかしチリには迎えてくれる家族すらいません。彼にとって帰国は、あらゆる意味で不可能な選択肢です。



2025年1月31日金曜日

【転載】動画「移民・難民に聞く 日本の入管政策」ペニャさん


[Posted on 2020/6/20]

 

【転載】
https://pinkydra.exblog.jp/29060551

SYI世界難民の日企画2020
動画「移民・難民に聞く 日本の入管政策」
ペニャさん(チリ)





 本日6月20日は、難民条約を記念するための「世界難民の日」として定められています。

 〔中略〕

 本日から毎週土曜、友人たちのビデオ・メッセージを、ウェブ上で配信します。第1回は、5月末に収容を解かれたばかりの、チリ出身のクラウディオ・ペニャさんの話です。途中までは彼が収容中に作成された動画ですが、後半は本人のメッセージです。

 帰国できない事情がある移民・難民を「送還忌避者」と侮蔑し、無期限収容によって迫害している日本の入管が、どれほど一方的で、恣意的で、偏見や蔑視にまみれ、反人道的であるか。この動画シリーズをつうじて、一人でも多くの日本に暮らす人々に知ってもらいたいと思います。


SYI (収容者友人有志一同 Immigration Detainees’ Friends)
 http://pinkydra.exblog.jp
 twitter.com/SYI_pinkydragon
 080-8844-7318
 freeimmigrants@yahoo.co.jp





VIDEO Message for WRD 2020: Claudio Peña


[Posted on 2020/7/15]

 

Originally Uploaded by SYI (Shuyosha Yujin-yushi Ichido: Immigration Detainees’ Friends)

https://pinkydra.exblog.jp/29076784/



Video Message 1: Claudio Peña

Messages from Refugees/Undocumented Immigrants in Japan, for World Refugee Day 2020


Language: Japanese and English

Subtitle: English

Edited by SYI




(May 2020)

Claudio Peña is a cook working in Japan for many years.

He lost visa in 2011, and was detained by the immigration twice.

The second detention reached 2 years and a half in April 2020.


Claudio Peña had worked as a cook since entering Japan in Jan. 1996.

In the end of 2010, he left his previous workplace to work at a new restaurant to be established by his Japanese friend.

However, the 2011 great earthquake and Fukushima nuclear disaster made the Japanese friend decide to give up his plan and leave Japan.

Claudio Peña looked for a workplace, but he couldn’t find any.

Immigration Bureau did not extend his period of residence.

Peña was thus made undocumented and detained by the immigration.


Claudio Peña was over fifty then. He cannot return to Chile.

He has neither expectation to establish life again in Chile, nor family to support him after his return.

Moreover, Claudio Peña is a refugee.

During the 1973 Chilean coup, Claudio’s father was forced to help with the army’s persecution of activists and massacre.

After the democratization in 1990, the father reported what he had done to the Truth Commission.

However, this provoked hostility both from the right and the left.

The whole family became the target of right-wing persecution.

As the result, Peña’s family was forced to live separately.

Despite that, one night in 1992 in Santiago, Claudio Peña was abducted by unidentified attackers.

He was taken outside the city, beaten up, and seriously injured.

In the hospital, he had to keep the reason secret from the doctor

in order to avoid further persecution.

Claudio Peña had to leave Chile.

He initially flied to Europe, where he met a Japanese

who asked him to work his restaurant in Japan.

It is so cruel and unfair that Immigration Bureau ignores all the reasons above but order him deportation.


Besides cooking, Claudio Peña is also good at drawing.

He made many artworks describing what happened in East Japan Immigration Center.

When a detainee and named Deniz attempted suicide, Claudio drew the incident in a picture, with a message that he should be released immediately.

This shocking drawing attracted public attention.


Claudio Peña is so a kind person.

In spite of his own difficulties, he often helps other detainees.

For example, he shares his possessions with others.

He negotiated with the officers patiently for immediate medication for his friend Deniz when he suffered from toothache.

It is the time for him to be released.


(June 17, 2020, two weeks after his release from immigration detention)

Hi, I am PEÑA Claudio.

I live in Japan for 25 years.

I lost my visa.

It’s so tough, but ….

I have now so many people to support me.

I really, really appreciate it.

And … I will do my best to be recognized as a refugee.

Japan’s asylum process is considerably strict, but I won’t give up, although it’s so tough to live under the status of Provisional Release.

To all my supporters, thank you from the bottom of my heart.


Thank you so much to everybody for supporting me.

And … I want to say to all the refugees in the world: Just fight, just fight.

I wish you a success.



2025年1月30日木曜日

作品 入管の中で年老いていくペニャさん

 

[Posted on 2020/4/9]

 

作品 入管の中で年老いていくペニャさん

2020年
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 檻に閉じ込められたペニャさんの自画像。
 若い頃の自画像と同じ姿だが、顔は年老いている。貼りつけらているのは、彼の日本での生活歴をものがたる、これまでの査証や許可証だ。

 在留を認められず、収容によって大切な時間を奪われつづけていることへの、深い嘆きが感じられる。

 ペニャさんは15年以上もコックとして働いてきた、私たちの社会の一員だ。しかし2011年、震災のせいで開業の計画が破たんし、代わりの就職先も見つからず、在留資格を更新できなかった。
 そのような事情も汲まず、彼の人権や、社会への貢献も無視して、入管は彼に送還の圧力をかけ続けている。二度目の収容(現在にいたる)のさいは、荷物をとりに自宅に戻ることすら許されず、すべての所持品を家主に強制処分されてしまった。

 真面目に働いて暮らしてきたペニャさんの努力を、彼の貴重な年月を、一時的な失業という、たったそれだけの理由で踏みにじる入管。
 こんなことが許されていいのか。



作品 収容所の窓でさえずる鳥

 

[Posted on 2020/4/4]

 

作品 収容所の窓でさえずる鳥

2019年8月

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(鳥のさえずり)

私のためにお誕生日の 歌を歌ってんの?

(鳥のさえずり)

でも…私のアドバイスは…

この場所から 急いで帰りなさい、
もし捕まえたら〔捕まったら〕、
また君の自由を 取り戻すために、
とても長期な 時間を 取られるんだ!!!

(鳥のさえずり)

ハハハハハ ありがとう!!!


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ペニャさんは8月、収容所の中で誕生日を迎えた。
入管収容施設で年を重ねるのは、これが何度目か。
彼の自由への切望と、奪われた時間を悔やむ悲痛な気持ちとが伝わる作品。