2025年3月31日月曜日

【応援メッセージ】雨宮処凛さん

 

「クラウディオ・ペニャさんに在留資格を!」キャンペーン

オンライン署名 (change.org)

 署名の第一次集約: 4月30日(水)

 

 

応援メッセージ[2] 雨宮処凛さん


さまざまなメディアから取材を受けてきたペニャさんですが、21世紀のさまざまな貧困問題に切り込んできた作家・雨宮処凛さんの近著『難民・移民のわたしたち これからの「共生」ガイド』(河出書房新社、2024年8月)にも取り上げられています。

ペニャさんが登場するのは第1章の75~83ページ。彼の記事にかぎらず、日本にくらす移民・難民をめぐる問題が分かりやすく報告されていますし、また当事者の背景や生活状況だけでなく人としての感情や思いが伝わる筆致で、読みやすいだけでなく内容の豊かな本です。

ぜひ読んでみてください。

 

さて、そんな雨宮さんからもこのたび、ペニャさんのために応援メッセージをお寄せいただきました。ありがとうございます!

 


 

【メッセージ】

ペニャさんには、2024年夏に出版した『難民・移民のわたしたち これからの「共生」ガイド』で取材させて頂きました。

仮放免の生活が続き、収入を得る手段もなく、病気の治療もままならない日々。

取材中に聞いた「たまに自殺したいと思います」という言葉がずっと耳に焼き付いています。

ペニャさんのことは取材前から知っていて、美味しいお料理を食べさせてもらったこともあります。

ぜひ、裁判傍聴などで、この問題に関心を持って頂けたらと思います。

雨宮処凛 作家・反貧困活動家。




 

2025年3月25日火曜日

【応援メッセージ】よしだよしこ さん

  

「クラウディオ・ペニャさんに在留資格を!」キャンペーン

オンライン署名 (change.org)

署名の第一次集約: 4月30日(水)

 

 

応援メッセージ[1] よしだよしこ さん

 

長年活躍されている歌手のよしだよしこさんが「ペニャさんに在留資格を!」キャンペーンのために、応援メッセージを寄せてくださいました。

よしださんは 「クラウディオさんの手」という、クラウディオ・ペニャさんの半生をものがたる共感に溢れたすてきな歌を作曲、演奏されています。ぜひごらんください。

 

 

クリックでYouTube

 

【メッセージ】

2年前の6月、小さなコンサート会場の打ち上げの席で私はエンパナーダをご馳走になりました。

コンサートの主催者K さんがクラウディオ・ペニャさんの支援をしていて、紹介をしてくれました。

美味しいエンパナーダを食べながら、彼の置かれている状況を少しだけ教えてもらいました

その後、何度か交流を重ねながら私たちは友達になりました。

友達が困っているのを知ったのだから、、、何かできることはないかしら、、、

昨年、少し長い曲をつくりました。「クラウディオさんの手」という歌です。

友達が困っているのを知ったから、、、。

 

2025年3月23日

よしだよしこ

 

 

 

2025年3月22日土曜日

【署名呼びかけ】南米料理の達人、私たちの隣人、C.ペニャさんにビザ(在留資格)を!

 

みなさま、ペニャさんの在留資格(ビザ)の請願署名にご協力ください!

用紙をプリントアウトし署名のうえ郵送、またはオンラインでも募集しています。

 

オンライン署名 

(Change.org) 

署名用紙PDF 

(送付先・問合せ先は用紙の下部に)

 

 第1次集約期日: 2025年4月30日

 呼びかけ: Free Claudio Peña! キャンペーンと協力者一同

 




 

請願署名 クラウディオ・ペニャさんに在留資格を!

法務大臣さま

 クラウディオ・ペニャさんの退去強制(送還)命令を撤回し、彼がここ日本に正規の地位で生きつづけることを認めてください。

 1.ペニャさんはすでにこの社会の一員です。彼は1996年に来日して以来、人々の舌を楽しませるコックとして暮らしてきました。2011年の震災後、一時的に勤め先が見つからなかっただけで、送還命令とは残酷すぎます。単身者だからと入管手続で不利に扱われるのも不公平です。彼が私たちの誰とも違いなく、この社会に溶け込んで暮らしているという事実を、そのまま認めてください。

 2.ペニャさんは料理コンクールで受賞したこともある腕利きのコックで、彼を雇いたい人が何人もいます。誰もが彼の料理をレストランで心ゆくまで楽しめるようになることが、日本社会を豊かにすることではないでしょうか。

 3.ペニャさんは出身国チリで迫害されるおそれがあります。生きるための就労を禁じられ、それでも彼が帰国を選べずそれに耐えるしかないという事実の重さを、よく考慮してほしいと望みます。


 

 

クラウディオ・ペニャさんとは?

 南米チリに生まれ、1996年に来日し、東京などでコックとして働きつづけてきたクラウディオ・ペニャさん。コンクールで受賞したこともある彼の料理の腕前には、誰もが舌鼓を打ちます。

 2011年、ペニャさんは新しいレストランの開業準備をしていました。ところが、3月に大震災と原発事故が起きると、日本人オーナーが事業計画を放棄し、大急ぎで日本を離れてしまいました。震災直後の混乱のなか他の就職先が見つからなかったせいで、彼は不運にも在留資格を更新不可にされてしまいました。

 しかしペニャさんは、実は難民であり、帰国すれば命の保障はありません。彼はチリ(首都サンティアゴ)にいた頃、迫害者に拉致され、命を落としかねない凄惨な暴力を受けたことがあります。チリでは1973年クーデターにはじまる軍事独裁の時代があり、ペニャさんへの迫害もこの歴史が関係しています。1990年の民主化、2019年からの改革の要求の高まりにもかかわらず、チリでは今なお軍とつながりのある極右が政治的暴力を起こしています。

 詳しくは、以下のブログ記事やニュース記事をごらんください。

 

何をめざす?

 この「ペニャさんに在留資格を」キャンペーンは、広い視野で見れば、ペニャさんだけに限らず「強制送還」という制度が作り出す人権侵害に対する、反対の意思表示となるものです。

 日本の入管は、在留資格(ビザ)がなくとも帰国できない事情のある外国人を、自由のない収容施設に無期限に閉じ込め、帰国(送還)を強要する、という非人道的な方法をとっています。

 収容の解除の手続(仮放免・監理措置)もありますが、就労を禁止され、健康保険にも入れず、移動の自由さえほとんど制限されるなど、抑圧された生活を強いられます。

 ペニャさんも、そのような人権はく奪の苦しい状態をどうにか耐え忍んで生活している人のひとりです。

 法律では、帰国できない事情のある人に対して、法務大臣(事実上は入管)が人道的見地から在留特別許可をすることを認めています。しかし現状では、ごく一部の人々、しかもたいていは日本人や永住者と結婚して子供をもった人が在留特別許可を出されますが、その一方で、単身の人や、外国人だけの家族に出されることはほとんどありません。

 こういう、日本人的な「イエ」の枠に入らない人を排除するような制度慣行もまた問題です。この「ペニャさんに在留資格を」キャンペーンは、この壁を突破しようとするものでもあります。

 どうかご協力を!

 


2025年3月22日

本件問合せ先

 柏崎正憲(SYI収容者友人有志一同) 

 080 8844 7318 m.ka48zaki  [ at ]  gmail.com




Petition: Visa for Claudio PEÑA, our neighbor and a talented cook from Chile, South America

 

Petition: Visa for Claudio PEÑA, our neighbor and a talented cook from Chile, South America


Join Petition Online 

(Change.org)

 

To Minister of Justice of Japan,

  We sincerely petition that the deportation order against Claudio Peña is withdrawn and his stay in Japan is legalized.

  1. Claudio Peña is already a member of Japanese society in a substantive sense. Since migrating to Japan in 1996, he has been pleasing the public as a chef. It is too cruel to deport him just because he was temporarily unemployed in the immediate aftermath of the 2011 earthquake. It is also unfair that his being single is negatively regarded in the immigration procedure. Please just recognize the fact that he lives here in Japan just in the same manner as each of us do regardless of nationality.

  2. Claudio Peña is a talented chef who has won a competition award. Many people offer to hire him. Wouldn't it be a great enrichment to Japanese society if we all could enjoy his food in the restaurant?

  3. Please also note that Claudio Peña is in fear of persecution in Chile, his country of origin. Prohibited to work for a livelihood, he has no choice but to refuse deportation. We hope you will consider why he has to do so.

 

 

2025年2月1日土曜日

ペニャさんの仮放免後の活動歴


[Posted on 2024/5/5]

 

 クラウディオ・ペニャさんは、2020年5月に東日本入管センター(牛久入管)から出たあと、多くのメディア取材やイベントへの招待などの依頼を受け、活動してきました。

 ここでは、ウェブでアクセス可能なペニャさんの活動歴の一部を紹介します。



ペニャさんの経歴


[Posted on 2020/3/21]

 

ペニャさんの経歴

クラウディオ・ペニャ
Claudio PEÑA

チリ国籍 1960年生まれ

(クリックで拡大)

ペニャさん自画像。1992年、彼がサンティアゴの料理コンテストで金メダルを受賞したときの写真にもとづく。


 1996年1月に来日。コックとして日本で長く働く。

 2010年末、意気投合した日本人といっしょにレストランを開くため、それまで勤めていた店を退職し、準備をはじめる。だがその矢先、2011年3月に大震災と原発事故が起きると、日本人コックは事業を起こす気を失ってしまい、日本を離れる。在留資格の更新期限が迫っていたペニャさんは、いそいで他の再就職先を探すが、震災直後の不安のなかで雇用者は見つからなかった。そのまま彼の在留期限は期限切れとなり、さらには同年7月、ペニャさんは入管に収容されてしまう。

 仮放免を許可されたのは2013年のことだった。それから4年間、就労が認められず健康も悪化するなか、ペニャさんがどうにか日本で暮らしつづける。しかし2017年10月、彼はふたたび東京入管に収容されてしまう。その後、2018年7月に牛久に移され、現在にいたる。

 第一に、ペニャさんはコックとして日本に長年暮らしてきた、この社会のメンバーである。在留資格を失った原因は、震災をきっかけに雇用先が見つからなくなってしまったことであり、彼自身に帰されるべき責めはない。

 第二に、ペニャさんは左脚に静脈瘤をもっており、航空機の客室用など狭いところに長時間じっとしているのは危険と医師に言われたことがある。もし彼を強制送還すれば、命にかかわる事態が生じるかもしれない。

 第三に、2018年、チリでかつての軍事独裁者ピノチェトの流れをくむピニェラが大統領に就いてからは、ペニャさんは迫害の恐れを抱いている。これも、彼を送還対象として扱うべきではない理由の一つだ。

 そんなペニャさんが自分自身の解放のために前進できるよう、2020年3月、支援するキャンペーンを開始した。以下の記事を参照。

 寄附のお願い ペニャさんの仮放免に向けて





ペニャさんの経歴2 出身国での迫害


[Posted on 2020/4/18]

 

ペニャさんの経歴2 出身国での迫害

 ペニャさんはコックとして働くためだけに日本に移住したのではありません。恐るべき迫害から逃れてきたのです。彼は家族とともに、出身国チリの悲劇的な歴史に巻き込まれ、離散を余儀なくされ、さらにはリンチを受けて危うく殺されかけました。つまり彼は難民なのです。

リンチを受けたペニャさん(本人作)
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1 背景・チリの軍事独裁と民主化

 1973年9月11日、ペニャさんが13歳のとき、チリで軍事クーデターが起こりました。チリ軍部は、選挙により成立した社会主義政権を暴力により覆し、左派の活動家や支持者を虐殺しました。クーデター米国の政府と多国籍企業に支援されており、軍部は政権につくと、米国の経済学者を顧問につけて財政削減・民営化・規制解除の新自由主義政策を推し進めたのです(それはむしろチリ経済を失業の拡大により破滅させたのですが)。

 1989年、チリ民衆の民主化要求の高まりを受け、1990年3月11日、民選のエイルウィンが大統領に就任し、軍事独裁は終わりました。その直後に設立された「真実和解国民委員会」(レティッグ委員会)は、軍政期における虐殺や人権侵害を調査し、翌年2月に報告書を提出しました。

 しかしその一方で、軍部はいまだに政治への影響力をかなり保っていました。そもそもエイルウィン大統領が、1973年には軍事クーデターの支持者であり、軍部に徹底的な対決姿勢をとることはありませんでした。それでも軍部は再三、真相究明を処罰に発展させないよう政権に脅しをかけたのです。こうして、民主化の後にも軍部の力は強大でした。


2 クーデターへの協力を強制されたペニャさんの父親

 1973年のクーデターで、ペニャさんの父親は軍部の左派狩りに協力させられました。民主化の後、父親は真相調査に協力します。しかしそのことで彼は、一方では左派に虐殺の協力者と見なされ、他方では軍部や右派に恨まれ、家族もろとも報復の対象にされてしまったのです。

 ペニャさんの父親は、軍など政府関係の建物のメンテナンスを担当する技師でした。クーデターが起きた日、一家の住居だった官営のアパートメントに軍人がやってきて、父親を連れ出しました。彼は仕事のため、官庁やアパートメントなどさまざまな建物に出入りしていたので、どこに左派がいるかを軍は彼から聞き出そうとしたのです。危険人物を別の場所に移すためだと、軍は彼に説明しました。

 命令を受けて、ペニャさんの父親はリストを作成しました。さらに軍は、身柄拘束された市民たちを収容したスタジアムに彼を連行し、彼に覆面をさせたうえで、リストに含まれる人物を指さして知らせるよう命じました。彼の協力により、軍は300人以上を特定しました。彼らは実際には、拷問され、殺され、死体を隠されたのです。そのことを軍は彼に決して知らせませんでした。その後、彼は多くの将軍たちから表彰を受けました。

軍部が収容所にしたスタジアム(N.Y. Times より)

 民主化の後、上記の真相究明の委員会が発足すると、ペニャさんの父親は自発的に、彼の協力による300人以上の行方不明者の件を、委員会に告白しました。すると彼は表向き退役ということで、軍から解任させられます。退職金などの恩恵も与えられませんでした。身の危険を感じて、一家は官営アパートから引っ越しましたが、しかし追跡と脅迫から逃れることはできませんでした。

犠牲者の選別に協力させられた父親(ペニャさん作)
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3 家族離散と迫害

 ペニャさん一家は、いっしょに暮らすのは危険だと判断し、別々に生きていくほうが安全だと判断して別れ、連絡もとらないようにしました。こうしてペニャさんの家族との生活は永遠に失われてしまったのです。後に父親は、孤独と恐怖のなかで認知症が進み、それで亡くなってしまいます。

 ところが父親と別れたにもかかわらず、ペニャさんは二度、誘拐されました。そのうち一度はリンチされ、死んでもおかしくないほど痛めつけられたのです。

 1992年、32歳になる年、ペニャさんはサンティアゴ市の国際料理コンテストで一位に選ばれ、金メダルを授与されます。そのことで、彼の勤め先が追跡者に発覚しました。

 ある夜、ペニャさんは仕事場のレストランを出ると、多数の男に囲まれました。おとなしくついて来なければ殺すと脅され、車に乗せられ、人里離れたところに連れていかれました。男たちはそこで彼を降ろすと、脅しと罵りの言葉を浴びせながら殴りはじめました。鎖や棒で痛めつけ、衣服をはがし、彼が倒れると石を投げつけながら殴る蹴るを続け、最後には小便をかけました。彼は血だらけで、全裸になったのに寒さをまったく感じなかったといいます。


迫害者に脅されるペニャさん(本人作)
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 男たちはペニャさんを放置して去りました。彼は時間をかけながら、どうにか民家にたどり着きます。住人は全裸で血だらけの彼を見て驚きましたが、彼は警察や救急車を呼ばないよう頼み、代わりに家族に電話をかけてもらいました。駆けつけた両親が、彼を病院に連れていきました。迫害者に見つかるのを恐れて、警察には強盗に襲われたと報告し、医師の診断書にはヘルニアの手術をしたと書かせました。

リンチされ捨て置かれたペニャさん(本人作)
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 これが原因で、ペニャさんはさまざまな後遺症に苦しめられています。まず左耳の聴力を失い、左目の視力も弱くなりました。しかもそのかわりにいつも耳鳴りがするようになり、そのせいで彼はつねにストレスを感じています。くわえて男たちは、おまえがコックなら料理できないようにしてやると言って、私の手を痛めつけました。そのせいで私の指は歪み、たまに鋭い痛みを発します。

 退院すると、ペニャさんはすぐにサンティアゴを離れました。その後、彼は欧州に渡り、そこで日本人に声をかけられて、1996年1月にペニャさんは日本に渡ります。それから2011年まで彼がコックとして問題なく暮らしてきたことは、先の記事で説明したとおりです。


おわりに

 ペニャさんは、チリの複雑な政治情勢に巻き込まれ、迫害の標的となり、実際に殺されかけました。いまもチリでは軍部が一定の力を保っており、ペニャさんの身の安全は保証されていません。くわえて、彼は高齢にさしかかりつつありますが、しかしチリには迎えてくれる家族すらいません。彼にとって帰国は、あらゆる意味で不可能な選択肢です。